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四季折々の写真・俳句集

aki1933.exblog.jp

写真と俳句で綴る日々の記録

<   2015年 08月 ( 9 )   > この月の画像一覧

 真夜中に秘かに咲く花、烏瓜が朝にはレースのような
花を閉じてしまっています。小金井カントリーのフェンス
に沢山の花を咲かせているのですが、残念ながら写真
に収めることは難しい。
 ご近所から一枝いただいてきた、夜来香エーライシャンの花
が根づき、今年は沢山の花をつけて咲いています。
この花も本当に不思議な花で夜になると何とも云えない
南国的な芳香を放つのです。
 紅葉葵の赤い花、宿根草ですが初秋の庭を彩る素敵な
花です。たいした手入れもしませんが、毎年季節を感じて
咲いてくれるので、愛しい花です。もうすぐ玉すだれの白い
花が咲くことでしょう。どこか寂しげな花、小さな球根で
増えていきます。年老いて雑草取りが膝の痛みで難しく
なってしまいました。花達よ、ごめんなさいね!
 秋の長雨が続きます。こんな8月尽は珍しいことです。
霧雨の中、退屈しのぎに写真を撮りました。
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by aki1933 | 2015-08-31 08:55 | Comments(1)
9月、私と次男の誕生日祝いに長男が広島対横浜戦
の野球チケットをプレゼントしてくれました。8月最後の
土曜日、車で横浜まで送ってくれるという。横浜で美味
しいラーメンでも食べようと云うので、私好みの四川風
ローズホテル内の重慶飯店を提案しました。辛口好み
にはお薦めの店です。激辛好みには景徳鎮だがこれは
いかにも辛すぎる。
 さて、・・・とういう訳で、私と次男は広島対横浜戦の
第2戦、前日の負けを何としても取り戻せとする応援の
渦の中で野球観戦をすることになつたのです。
 延長戦となり広島の勝利となるまでの熱き闘いと応援
の渦は本当に凄かった!3対2で広島勝利。
 戦後横浜育ちの私、一塁側に席があればきっと横浜
に声援を送つていたでしょうね。どちらが勝っても、実に
楽しい野球観戦でした。そんな私の心情を察してか球場
選びはいつも横浜なのが、嬉しい心配りです。
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時に霧雨も降る肌寒い一日、あの暑さは何処へ!
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by aki1933 | 2015-08-30 08:02 | Comments(1)
不安定な天候が続いておりましたが、久々に
青空の爽やかな朝です。コーラスの友人から
書道展の案内をいただいておりましたので、
上野都美術館まで出かけることにしました。
カルチャーセンターの先生からも林芙美子記念館
についてのご案内があつたので欲ばつて両方
行くことにしました。西武線中井駅と上野駅、
都合よく廻れるコースですものね。
爽やかな風と青空のもと、足取りも軽く歩き
ました。夫々に沢山の感動がありました。
写真は全てスマホ摂りです。

林芙美子記念館・竹林に囲まれた和風住居・書斎
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知人の見事な書・金賞受賞作品
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by aki1933 | 2015-08-27 16:29 | Comments(1)
 永年我が家の庭の手入れをして下さっていた庭師の
Tさんが入院されて、庭樹の手入れが出来なかったので
荒れてしまった庭。藪からしが絡みついている樹。
 花つくりが大好きだった私も、このところすっかり体力が
なく、荒れてしまった庭が悲しい。
 そんな時、新しく紹介された若手の庭師が、やってきた。
電動の器具を導入し、作業がとてもスピーディ。
こざっぱりとした庭。ほっとする気持ちと、刈り取られてし
まった宿根草をいたむ気持ちが交錯する。
     雑草にあらじと思ふ水引草
こぼれ種から育った鉄砲百合が沢山の花を咲かせている。
修理から戻ってきた一眼レフカメラで久々に花の撮影を試み
た。マクロレンズ使用、写真の仕上がりに差ありと思う。

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by aki1933 | 2015-08-20 10:40 | Comments(0)
八ヶ岳美術館のそばに、原村朝市が立ち、地元の
野菜や手作り品が並びます。早起きしてメイプルの
散歩コースなので、時折のぞいてみますが、この所
買い物意欲がすつかり失せてしまいました。
道すがらに見つける愛らしいお花が、とても綺麗。
スマホ撮りが身についてしまいました。カメラの
修理が出来たとの連絡が留守中に届いたそうです。
遅すぎますぜ!
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by aki1933 | 2015-08-16 15:03 | Comments(0)
快晴の八ヶ岳中央高原を車で走りました。
ベジタブルランド原村は、高原野菜の宝庫
自由農園には新鮮な野菜が並びます。
甘みがあり、とても美味しいです。
小金井公園で歌っている「大地讃頌」を
思い出しました。"母なる大地をほめ讃えよ”
トウモロコシ畑の向こう八ヶ岳の主峰赤岳を黒雲が
覆っています。夕立が来るかもしれませんね。
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翌日八ヶ岳美術館の横道沿いに、山道を歩き
ました。信玄の棒道の標識を見ながらさらに
登ると八ヶ岳ビューポイントに行けると地図
にありましたが、少々きつくなり、雲が出て
きたので断念しました。若い人との行動は
中々難しいものがあります。迷惑かけまいと
思いますものね。
入笠山側は、美しい青空、真っ白な夏雲を
スマホカメラに収めました。
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 スマホからの投稿が手軽にできて、たまにパソコンを
開くとブログ画面が乱れていることに気付きます。修正
しようと試みますが、うまくいきません。写真も大きすぎ
ますし、家族のプライベート記事は非公開にする等々の
制約もあり、ブログ全体をリメイクしたいと思っています。
by aki1933 | 2015-08-15 15:43 | Comments(0)

今年も恒例のピザバーティーに参加しました。
八ヶ岳の娘の山荘に築いた石窯が大活躍して
います。手づくり志向のメンバーによるピザ
も回を重ねる毎に腕が上がり、内容も豊かに
なりました。イタリア風から、地元野菜を色々
入れ、味噌マヨネーズで調味した和風のもの
まで8種類も並んだ様は、見事でした。
今年は、更にスモーク窯まで使うことに
なりました。前日野辺山高原にドライブして
手に入れたニュージーランド製のかたいチーズ
が、本当にいい色にスモークされて歓声が
上がりました。スモーク窯が大型なので
きっと色々な素材に挑戦出来そう、楽しみ
ですね。
このメンバー、次男が小学生の頃に参加した
のボランティアリーダー達のOB仲間です。
当時大学生だった方々が今も集まれば昔の
ままに楽しく活動するのです。今回は、我家の
孫夫婦が初参加して、早速よい働き手になって
くれました。嬉しいことでした。
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by aki1933 | 2015-08-15 02:01 | Comments(0)

 昨日は広島の平和記念式典でした。終日広島の原爆
がテーマの映像がテレビで報道されました。広島市長の
平和宣言に「まどうて!」と広島の方言が使われました。
 まどえる訳ありません。しかし、後世にあの悲劇を風化
させることなく伝え、戦争のない平和な世界を創る日本で
あって欲しい。日本はそれを世界に発信できる唯一の国
なのですから!
 平和憲法が制定されている中、安保法案は違憲だと
多くの憲法学者が見解を述べておられる。そして一般の
国民も不安を感じている。この法案の制定をすすめる
政治家は 昨今世界情勢はそんなに甘い状況ではない
としている。この意見に流されてよいものでしょうか?
 さて、昨日のNHKの特別番組は衝撃的でした。広島市
千田町、元安川にかかる御幸橋にやっとやっと逃れてきた
被災者の大部分は学徒動員中だった若き女学生達、当時
1~2年生だったのです。
 当時千田小学校6年に在籍の私達は、その年の4月に
広島県山県郡蔵迫村勝龍寺に学童疎開していました。
御幸橋は通学路でした。たった一年の学齢の差を思う時
若くして命を奪われた人々の悲惨さを重く哀しく感じます。 
 私達は、その年の9月に焼け野が原の広島に戻りました。
千田小学校の授業が再開されたのは、その年の初冬でした。
最初防空壕の山に、石を並べて階段式の青空教室でした。
雨の日にはテントがはられました。学校に復帰できたごく
少数の生徒のために、先生方のご努力だったのでしょう。
焼け残った校門横のご真影を(天皇の写真)祀ってあった
建物が先生の宿舎でしたよ。
 「生ましめんかな」という原爆詩をご存知でしょうか?
舞台となった貯金局が、やがて千田小学校の校舎として 
使われました。瓦礫の石を並べて椅子代わりにしたのは
わずかの期間でした。記憶が正確さを欠いていますが。
 広島県立第一高女(現皆実高校)に進学しましたが、
校舎は、元陸軍被服廠の赤レンガの建物でした。
旧制広島高等学校がすぐそばにあり、バンカラな学生が
学園祭の後、女学校にストームをかけてきました。その中
に主人がいたのだと後からわかり、愉快になりました。
 日本人は、本当にたくましいと、心から思います。戦後
から立ち上がるエネルギーって、何だったのでしょうか。
 
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  戦地で戦い、帰還する兵士の復員便りが毎日ニュース
に流れ、音声の悪いラジオに、それこそ耳をつけて聞き
ました。終戦の翌年の暮に、父の部隊名を弟が聞きました。
浦賀に上陸との報道でした。やつれた兵士姿の父は、焦土
と化した故郷広島、祖父母はすでに亡くなり、どんなにか心の
張り裂けるような思いだったことでしょう。
 でもあの理不尽な戦の後遺症もやがて癒えて行き、職場
復帰もできて、落ち着いた生活が可能になっていきました。
8月は戦争を知る世代の皆が悲しく過去を思う月。けれども
前向きで生きる気持ちを、持ち続けたいと思います。
by aki1933 | 2015-08-07 10:16 | Comments(0)
  あの広島原爆投下の日から70年もの歳月が流れ、
今年も暑い夏が巡ってきました。
本当に何からお話したらよいのでしょう、日本中があの
戦争に苦しみましたが、私の家族にも様々な出来事が
ありました。綴っておきたいと思います。
 戦争の末期、42歳の銀行員だった父にも赤紙の召集
令状が届きました。髪を丸刈りにして行く先も知らされず
父は郷里広島の聯隊に出征して行きました。
 父方の祖父母が同居する家族でしたが、家の外で万歳
の声が聞こえる中、涙の別れの場面は、忘れることが
出来ません。父の帰還を待たずして、祖父母は相次いで
世を去りました。
 母と三人の子供たちは、東京駅に父を見送りに行きまし
たがホームに上るところで立ち入り禁止でした。当時品川区
御殿山に住んでいましたので、八っ山橋の上から見送りを
と父に伝え、急いで品川駅に戻りましたが、それらしい列車
は屋根しか見えませんでした。
 母が千人針のお守りを作っていたのを覚えています。
武運長久を祈り、点描の虎の絵の上に赤い糸で玉結びを
つなげてゆくものです。千人は無理としても、出来るだけ
多くの人にお願いをするのがよいとされ街頭に立つ人まで
ありました。虎は千里を行って帰ると信じてのお守りだった
のです。
 お国のために犠牲になり戦死された方の英霊の葬列に、
小学生が並んでお出迎えをしました。小泉信三氏のご子息、
小泉信吉海軍少尉の葬列は、今でも目に浮かぶほど悲しく
厳粛な風景でした。
 さて、残された家族は、一年後に原爆の悲劇がおこるとは
夢思わず、広島・千田町の母の実家に疎開することになりま
した。出征した父からは、部隊番号を記した軍事郵便が南支
から届き、かろうじて所在が知らされました。
 5年生の初夏、広島の千田小学校に転校しました。
すぐにお友達もできて、学校生活は順調でしたが、戦局は
益々激化して行きました、本土決戦に備え、建物疎開、
学童疎開等、世の中がが激しく変化してゆきました。
 小学校の教室は、夜間に兵隊さんの宿舎になりました、
戦場に出征する若い兵隊さんに皆で手紙を書きました。
翌朝兵隊さんから、寄せ書きの返事が置いてありました。
 6年生の4月、学童疎開が始まり、広島県山県郡蔵迫村
と決まりました。疎開先のお寺は大きな本堂と庫裏があり
今も勝龍寺をパソコンの地図上で見ることの出来ます。
訪ねてみたいと、懐かしく思い出します。
 蔵迫小学校は、のどかな学校でしたが、ハワイ真珠湾
攻撃の際、犠牲となった九軍神のお一人の出身校と碑が
建っていたのが印象に残っています。
 8月6日の朝、田植えの農繁休暇のため、遅れの夏休み、
朝礼の始まる前でした。強い光線の後、体に響く大音響に
何事かとざわめく中、きのこ雲が立ち上っていきました。
この雲、数日は広島上空を覆っていたと記憶しています。
 広島の惨劇を知ることになったのは、数日後の事です。
お寺の前の街道を、被災者した人達の避難の列が続き
ました。中には全身ケロイドでだだれた人が、大八車に
乗せられていました。お寺に立ち寄って「お前の母ちゃん
死んだよ」と知らせる人がいました。それを聞いた男の子
が広島に向けて寺を脱走しました。途中で保護されたの
ですが、本当に可哀そうでした。母を亡くし家族が子供を
引き取りに来られたケースもありました。爆心地から僅か
2キロの学校区ですから、疎開児童の上に様々な悲劇が
襲いました。9月、残る全員が焦土の街、広島に帰って
きました。母の住む家は、爆風で壁が吹き飛びましたが、
類焼を免れ、庭に蚊帳を吊り、野宿を続けながら何とか
雨露をしのげるようにして、私と弟を迎えてくれました。
たった半年の学童疎開でしたが、長く感じられます。
 この記録を書きながら、幾度涙をこらえたことでしょう。
パソコンの手元が狂い、全文消去が度々起こりました。
もう書きたくないと思いましたが、やっとの思いで何度目
かの文を書きました。その度に内容が違っています。
想い出す事柄が多すぎて、纏まりません。昨日は体調を
崩しました。クリニックの検診で、今までにない低血圧でし
た。                    (以上)
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by aki1933 | 2015-08-06 08:16 | Comments(0)