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四季折々の写真・俳句集

aki1933.exblog.jp

写真と俳句で綴る日々の記録

雲の峰廃虚の街を忘れまじ  大餐

 毎年8月の原爆忌が近づくと、小学6年生だった私が広島県北
山県郡蔵迫小学校の校庭で体験した原爆投下の時の衝撃を思い出す。
光線そして大音響、そしてむくむくと立ち上がる巨大な雲の柱、
白い雲の柱は、だんだん横に広がり数日間も広島の上空を覆っていた。
 その雲の下で実に14万人の犠牲者が、うごめいていたのである。
その広島から、多くの犠牲者の群が、救いを求めて県北の大朝の病院
にむけて、ひたすら歩く姿を、小学生だった私は、目撃していた。
私の疎開していたお寺の前の街道を歩く人々の群れは、魂のぬけがら
のような人達、異様だった。
 私は、広島弁をうまく喋れない東京からの疎開者でした。あれは 
いじめだったと思います。「おどりゃちいとこうへいなのう」と
東京弁を生意気と思われて、無視されていたようでしたが、めげずに
好奇心のままに村の人々の暮らしを観察していました。かなり豊かな
村落でした。4月から9月までの短期間でしたが、田植えの時期には
学校は農繁期休暇があり、その分夏休みが短縮されて、8月6日から
夏休みが始まり、学童は期末の終業式で校庭に集まっていたのです。
 8月15日終戦後に、村の鎮守様の杜で催された村歌舞伎に、疎開
児童も招待され、とても普通では口にできなかった牡丹餅をいただき
ました。広島で亡くなられた親を悼んで村人からのお心遣いかも知れ
ません。
 演目は那須与一、源平屋島の戦に登場する弓矢の名人、源氏の武将
那須与一の台詞は、昨日まで馬を使い田を耕していた村人、「やあやあ
遠からん者は音にも聞け、近くば寄って目にも見よ」と立派な衣装を
身に付けた武者姿に驚きました。この村歌舞伎は、長く村人により
伝承され、村の鎮守様に奉納されてきたもの、後にテレビ特集番組で
知りました。
 蔵迫小学校の校門前に、真珠湾攻撃の際の「九軍神」の一人の出身校
の碑が建っていました。これも後に江田島海軍兵学校を訪ねた時に確認
当時をあれこれ想い出しました。今パソコンを検索すると蔵迫村の事が
かなり詳しく映像化されています。昔と変わらぬ勝龍寺、小学校は
廃校になっていました。行ってみたいなと、叶わぬことながら思います。
 9月になって、全員広島に帰れることになりました。幸いに私の疎開先
祖父の家は焼け残り修理してやっと住める状態でした。
千田小学校の生徒に学校再開の知らせが来たのは、11月のことでしたが、
登校して来たのは僅か十数人でした。焼け野が原の防空壕に焼け跡から石
を拾ってきて椅子にして授業、雨の日にテントが準備され、渡されたゲラ
刷りの教科書に墨塗りの作業でした。唯一焼け残った「ご真影奉納庫」が
先生方の宿舎として使われていました。女学校の入学テストのための補修
授業もそんな中ありました。私は広島県立第一高等女学校、今の皆実高校
に合格することができました。父が赤紙で召集されたままでした。音声の
やっと聞き取れるラジオに耳をつけて、復員便りを聞きました。外地から
浦賀に復員してきた兵士は56万人、舞鶴港や博多港を含めるとどれ程の
数か想像もつかない数です。
 そのうち千田貯金局の庁舎が小学校の校舎として使われることになった
のです。原爆詩「うましめんかな」の舞台となった場所です。凄いですね。
あの70年草木も生えないだろうといわれた広島が、一歩一歩たしかな歩み
を遂げていくのですから・・・。父たちの世代は、戦争の事は殆ど口に
しないまま働き、日本を復興させ、世を去りました。
 そして昨年のオバマ大統領の慰霊訪日までの道のりを思うと、感涙し
胸がいっぱいになるのです。私は、ささやかに文を遺しておきましょう。
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by aki1933 | 2017-07-27 21:14 | Comments(0)