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四季折々の写真・俳句集

aki1933.exblog.jp

写真と俳句で綴る日々の記録

黙してはならじと平和祈る夏

  あの広島原爆投下の日から70年もの歳月が流れ、
今年も暑い夏が巡ってきました。
本当に何からお話したらよいのでしょう、日本中があの
戦争に苦しみましたが、私の家族にも様々な出来事が
ありました。綴っておきたいと思います。
 戦争の末期、42歳の銀行員だった父にも赤紙の召集
令状が届きました。髪を丸刈りにして行く先も知らされず
父は郷里広島の聯隊に出征して行きました。
 父方の祖父母が同居する家族でしたが、家の外で万歳
の声が聞こえる中、涙の別れの場面は、忘れることが
出来ません。父の帰還を待たずして、祖父母は相次いで
世を去りました。
 母と三人の子供たちは、東京駅に父を見送りに行きまし
たがホームに上るところで立ち入り禁止でした。当時品川区
御殿山に住んでいましたので、八っ山橋の上から見送りを
と父に伝え、急いで品川駅に戻りましたが、それらしい列車
は屋根しか見えませんでした。
 母が千人針のお守りを作っていたのを覚えています。
武運長久を祈り、点描の虎の絵の上に赤い糸で玉結びを
つなげてゆくものです。千人は無理としても、出来るだけ
多くの人にお願いをするのがよいとされ街頭に立つ人まで
ありました。虎は千里を行って帰ると信じてのお守りだった
のです。
 お国のために犠牲になり戦死された方の英霊の葬列に、
小学生が並んでお出迎えをしました。小泉信三氏のご子息、
小泉信吉海軍少尉の葬列は、今でも目に浮かぶほど悲しく
厳粛な風景でした。
 さて、残された家族は、一年後に原爆の悲劇がおこるとは
夢思わず、広島・千田町の母の実家に疎開することになりま
した。出征した父からは、部隊番号を記した軍事郵便が南支
から届き、かろうじて所在が知らされました。
 5年生の初夏、広島の千田小学校に転校しました。
すぐにお友達もできて、学校生活は順調でしたが、戦局は
益々激化して行きました、本土決戦に備え、建物疎開、
学童疎開等、世の中がが激しく変化してゆきました。
 小学校の教室は、夜間に兵隊さんの宿舎になりました、
戦場に出征する若い兵隊さんに皆で手紙を書きました。
翌朝兵隊さんから、寄せ書きの返事が置いてありました。
 6年生の4月、学童疎開が始まり、広島県山県郡蔵迫村
と決まりました。疎開先のお寺は大きな本堂と庫裏があり
今も勝龍寺をパソコンの地図上で見ることの出来ます。
訪ねてみたいと、懐かしく思い出します。
 蔵迫小学校は、のどかな学校でしたが、ハワイ真珠湾
攻撃の際、犠牲となった九軍神のお一人の出身校と碑が
建っていたのが印象に残っています。
 8月6日の朝、田植えの農繁休暇のため、遅れの夏休み、
朝礼の始まる前でした。強い光線の後、体に響く大音響に
何事かとざわめく中、きのこ雲が立ち上っていきました。
この雲、数日は広島上空を覆っていたと記憶しています。
 広島の惨劇を知ることになったのは、数日後の事です。
お寺の前の街道を、被災者した人達の避難の列が続き
ました。中には全身ケロイドでだだれた人が、大八車に
乗せられていました。お寺に立ち寄って「お前の母ちゃん
死んだよ」と知らせる人がいました。それを聞いた男の子
が広島に向けて寺を脱走しました。途中で保護されたの
ですが、本当に可哀そうでした。母を亡くし家族が子供を
引き取りに来られたケースもありました。爆心地から僅か
2キロの学校区ですから、疎開児童の上に様々な悲劇が
襲いました。9月、残る全員が焦土の街、広島に帰って
きました。母の住む家は、爆風で壁が吹き飛びましたが、
類焼を免れ、庭に蚊帳を吊り、野宿を続けながら何とか
雨露をしのげるようにして、私と弟を迎えてくれました。
たった半年の学童疎開でしたが、長く感じられます。
 この記録を書きながら、幾度涙をこらえたことでしょう。
パソコンの手元が狂い、全文消去が度々起こりました。
もう書きたくないと思いましたが、やっとの思いで何度目
かの文を書きました。その度に内容が違っています。
想い出す事柄が多すぎて、纏まりません。昨日は体調を
崩しました。クリニックの検診で、今までにない低血圧でし
た。                    (以上)
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by aki1933 | 2015-08-06 08:16 | Comments(0)